丹波の名酒「小鼓」
昨日は六代目三遊亭圓生師匠の命日でした。1979年9月3日、79歳の誕生日にお亡くなりになりました。私は志ん生師匠、文楽師匠には間に合いませんでしたが、圓生師匠は間に合いました。何が間に合ったかというと、生で落語を聴いて、楽屋でお目にかかって、お話もさせてもらえたという意味で間に合ったんです。
当時、内弟子で桂米朝宅に住み込んでいましたが、ある新聞社から1本の電話がかかってきました。圓生師匠が亡くなったので、米朝師匠のコメントをいただきたいと言うのです。
寝耳に水というか、1週間前に神戸の「東西落語名人選」でお目にかかったばかりです。すこぶるお元気だったので信じられないし、信じたくない思いでした。
訃報は新聞に大きく載りましたが、巡り合わせというか、次の日に上野動物園のパンダも死んだのでした。日本に初めて来たパンダ、カンカンとランランのメスのほう、ランランが死んだのです。新聞にはこういう風に載りました。
「ランラン死ぬ」
その隣に、
「圓生さんも死ぬ」
噺家の死亡記事で後々までこんなに語られた新聞記事はないでしょう。
その存命中、あれは落語協会分裂騒動のすぐあとだったので、1978年の夏だったと思います。京都府立文化芸術会館で「三遊亭圓生独演会」があって「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」が演じられることになりました。今も馴染みの深い芸館(私はこの会館のことを芸館と略して言うてます。うちの師匠もそうでしたし、多くの関係者はこう呼んでますが、文芸と言う人も居るし、府芸と言う人も居ます)で圓生師匠の会ですから、勉強に行きたいと思いました。
勉強に行くというのは、チケットを買って観に行くのではなく、楽屋でお手伝いをしながら聴かせてもらうということです。この会の日、うちの師匠はオフでした。つまり付き人として一緒にどこかへ行くことはありません。行きたいという気持ちはどんどん強くなりました。
「圓生師匠の会、勉強に行かせてもらってもよろしいやろか?」
「う~む……」
師匠は唸ってはりましたね。しばらく無言でした。
「分裂があったこの時期に、わしの弟子が圓生さんの会に行くことは……」
そのあとまた黙ってしまいはりました。
「それなら、チケットを買うて客席から見せてもらいます」
私も「ほなら行くのをやめます」とは言いませんわ。ひょっとしたら「やめとけ」と師匠は言いたかったのかもしれませんが……。
「いやいや、そんなことはせんでええ。行ったらええけど、また考えとくわ」
その日はここで会話は終わりました。
そして当日、
「今日、圓生師匠の会へ行かせてもらってもよろしいですか」
「楽屋へこれを持って行きなさい。わしからやと言うてな」
出してくれたのが、丹波のお酒「小鼓」の4合瓶でした。これは師匠が自分で買うたものではありません。楽屋見舞いでいただいたものです。当時、米朝宅にはいただきものの日本酒がゴロゴロしてました。その中からうちの師匠が「小鼓」を選びはったのですね。うちの師匠にとってもちょっと特別なお酒だったと思います。
私はこれを大事に持って芸館の楽屋に圓生師匠を訪ねました。私の考えでは大阪の噺家仲間が何人も来ていると思ってました。でも誰も来てない。私一人なんです。
「そうですか。米朝さんのお弟子さんですか」
圓生師匠は歓待してくれはりました。「小鼓」を手にして凄く嬉しそうに見えました。
お手伝いするつもりで行きましたから、衣装も畳んだし、トレードマークのような高座に出す大きな湯呑みの白湯まで用意しました。その日は三遊亭生之助師が一緒に来られてましたが、
「お湯はうんと熱くして、湯呑みにちょうど半分」
と極意まで教わりました。私、圓生師匠のあの湯呑みの用意をしたんです。自分で感動しながら。
「真景累ヶ淵」は舞台袖でたっぷり聴かせてもらい、異常に興奮して武庫之荘へ帰って、うちの師匠に報告いたしました。
それからしばらくして今も続く神戸文化ホールの「東西落語名人選」がありました。うちの師匠も圓生師匠も出演する大きな落語会でした。突然、圓生師匠がうちの師匠の楽屋を訪ねて来られたのです。
「この間は、お弟子さんにお世話になりまして、ありがとうございました。これは私の好物なんですが、よかったらどうぞ」
持って来られたのは鮑でした。煮たものだったか、つくだ煮のようなものだったか、その辺の記憶は曖昧ですが、鮑でした。とにかく圓生師匠はご機嫌でした。そしてちょっと離れたところに居た私を見つけると、
「あ、あなた、この間はありがとう」
さすがに私の名前は憶えておられませんでしたが、私のところへ飛んで来られて、何か包んだものをいただきました。もう感激してどう応対したか覚えてませんが、とにかく圓生師匠は上機嫌で自分の楽屋へ戻って行きはりました。
私がいただいたものはご祝儀と高座用の手拭でした。祝儀袋には3,000円入ってました。当時の相場は500円、張り込んで1,000円でしたから3,000円は破格です。
これが六代目三遊亭圓生師匠との最大の思い出でございます。あの時いただいた祝儀袋と手拭は私の一生の宝物です……いや、でした。だって今、どこへ行ったか分からないのですから。
先日、あの「小鼓」の4合瓶をいただきました。「あ、小鼓」と思った途端、蘇ってきた思い出をご紹介いたしました。
当時、内弟子で桂米朝宅に住み込んでいましたが、ある新聞社から1本の電話がかかってきました。圓生師匠が亡くなったので、米朝師匠のコメントをいただきたいと言うのです。
寝耳に水というか、1週間前に神戸の「東西落語名人選」でお目にかかったばかりです。すこぶるお元気だったので信じられないし、信じたくない思いでした。
訃報は新聞に大きく載りましたが、巡り合わせというか、次の日に上野動物園のパンダも死んだのでした。日本に初めて来たパンダ、カンカンとランランのメスのほう、ランランが死んだのです。新聞にはこういう風に載りました。
「ランラン死ぬ」
その隣に、
「圓生さんも死ぬ」
噺家の死亡記事で後々までこんなに語られた新聞記事はないでしょう。
その存命中、あれは落語協会分裂騒動のすぐあとだったので、1978年の夏だったと思います。京都府立文化芸術会館で「三遊亭圓生独演会」があって「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」が演じられることになりました。今も馴染みの深い芸館(私はこの会館のことを芸館と略して言うてます。うちの師匠もそうでしたし、多くの関係者はこう呼んでますが、文芸と言う人も居るし、府芸と言う人も居ます)で圓生師匠の会ですから、勉強に行きたいと思いました。
勉強に行くというのは、チケットを買って観に行くのではなく、楽屋でお手伝いをしながら聴かせてもらうということです。この会の日、うちの師匠はオフでした。つまり付き人として一緒にどこかへ行くことはありません。行きたいという気持ちはどんどん強くなりました。
「圓生師匠の会、勉強に行かせてもらってもよろしいやろか?」
「う~む……」
師匠は唸ってはりましたね。しばらく無言でした。
「分裂があったこの時期に、わしの弟子が圓生さんの会に行くことは……」
そのあとまた黙ってしまいはりました。
「それなら、チケットを買うて客席から見せてもらいます」
私も「ほなら行くのをやめます」とは言いませんわ。ひょっとしたら「やめとけ」と師匠は言いたかったのかもしれませんが……。
「いやいや、そんなことはせんでええ。行ったらええけど、また考えとくわ」
その日はここで会話は終わりました。
そして当日、
「今日、圓生師匠の会へ行かせてもらってもよろしいですか」
「楽屋へこれを持って行きなさい。わしからやと言うてな」
出してくれたのが、丹波のお酒「小鼓」の4合瓶でした。これは師匠が自分で買うたものではありません。楽屋見舞いでいただいたものです。当時、米朝宅にはいただきものの日本酒がゴロゴロしてました。その中からうちの師匠が「小鼓」を選びはったのですね。うちの師匠にとってもちょっと特別なお酒だったと思います。
私はこれを大事に持って芸館の楽屋に圓生師匠を訪ねました。私の考えでは大阪の噺家仲間が何人も来ていると思ってました。でも誰も来てない。私一人なんです。
「そうですか。米朝さんのお弟子さんですか」
圓生師匠は歓待してくれはりました。「小鼓」を手にして凄く嬉しそうに見えました。
お手伝いするつもりで行きましたから、衣装も畳んだし、トレードマークのような高座に出す大きな湯呑みの白湯まで用意しました。その日は三遊亭生之助師が一緒に来られてましたが、
「お湯はうんと熱くして、湯呑みにちょうど半分」
と極意まで教わりました。私、圓生師匠のあの湯呑みの用意をしたんです。自分で感動しながら。
「真景累ヶ淵」は舞台袖でたっぷり聴かせてもらい、異常に興奮して武庫之荘へ帰って、うちの師匠に報告いたしました。
それからしばらくして今も続く神戸文化ホールの「東西落語名人選」がありました。うちの師匠も圓生師匠も出演する大きな落語会でした。突然、圓生師匠がうちの師匠の楽屋を訪ねて来られたのです。
「この間は、お弟子さんにお世話になりまして、ありがとうございました。これは私の好物なんですが、よかったらどうぞ」
持って来られたのは鮑でした。煮たものだったか、つくだ煮のようなものだったか、その辺の記憶は曖昧ですが、鮑でした。とにかく圓生師匠はご機嫌でした。そしてちょっと離れたところに居た私を見つけると、
「あ、あなた、この間はありがとう」
さすがに私の名前は憶えておられませんでしたが、私のところへ飛んで来られて、何か包んだものをいただきました。もう感激してどう応対したか覚えてませんが、とにかく圓生師匠は上機嫌で自分の楽屋へ戻って行きはりました。
私がいただいたものはご祝儀と高座用の手拭でした。祝儀袋には3,000円入ってました。当時の相場は500円、張り込んで1,000円でしたから3,000円は破格です。
これが六代目三遊亭圓生師匠との最大の思い出でございます。あの時いただいた祝儀袋と手拭は私の一生の宝物です……いや、でした。だって今、どこへ行ったか分からないのですから。
先日、あの「小鼓」の4合瓶をいただきました。「あ、小鼓」と思った途端、蘇ってきた思い出をご紹介いたしました。
この記事へのコメント
ああいうことがあった後で、おそらく多くの人が心の中で気にはしていても何もできず、
遠巻きにして近寄らない中で、米朝師匠のお弟子さんが来てくれた。本当にうれしかったんだと思います。
ひょっとしたら米朝師匠が「行け」とおっしゃってお弟子さんが来た、と思われたのかもしれません。
米朝師匠も「行って良い」というのも勇気がいったんでしょう。ちょうどそういう時期だったんだと思います。